19年間ありがとう~日立全自動洗濯機NW-7S2

2017年10月23日 11:43



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この洗濯機が我が家に来たのは1998年1月17日だった。
まだ両親共に健在で、あいつは大学入試に合格した。続いて翌年次男も。
「孫が2人とも現役で志望校に入学できてよかった」と喜んでいた母はその翌年に亡くなった。

我が家の最も良い時期に来て、家を建て替えた後も10年間頑張ってくれた。
その間、モーターのVベルトを2度取り替えた。
排水ホースがひび割れて交換部品を用意していたが、テープ巻きで保っていたのでそのままになっている。

モーター等は全く問題ないのだが、ホース以外の場所から水漏れしている。
後1年で「成人」になったのに、残念ながら後継に道を譲る事になった。


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こちらが後継のBW-V70B-A
容量は同じで少しスリムになっている。
国内メーカーのものは値段が倍以上に上がっていた。
ハイアールなら1/3の値段で買えるのだが、アフターケアに不安があるので今度も日立にした。
それでも「国産」にはなっていない。
海外部品を使っているからという事らしいが果たして耐久性は・・・・・。







30年ぶりの旧我が家

2017年07月19日 18:05



ふと思い付いて、古市(羽曳野市)のかっての我が家へ行ってみた。
電車の窓越しやグーグルマップで見ることはあっても、実物は30年ぶりだ。

富嶽鉄道の車窓撮影~アクションカムHDR-AZ1 を使って撮ったビデオ(4Kではない)から切り出した画像なので、解像度が低い。


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羽曳野市役所の前を通り、近鉄古市駅の通りを過ぎると、国道170号線は急な上り坂になる。
ありゃ近鉄の車庫の辺りに、こんな大きなマンションが出来ているぞ。


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石川と近鉄長野線の間の坂道は、昭和苑が外部と繋がる唯一のルートだ。
住んでいた頃は何ともなかったが、今なら毎日苦痛を感じずには居られない。


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坂道を降り、道路は線路に沿って第2期工事の区画へ入っていく。
道端に滑り台とブランコだけの小さな公園が今も残っていた。


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公園の角を曲がると・・・・,
30年前から変わらぬ家並みが続いていた。



30年前の「あいつ」。
補助輪の付いてない自転車に乗って、大声を出しているほう。


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この角の家が我が家だった。
角のガレージに屋根を後で作り付けた。それを支える柱が濃い色で塗り重ねられているだけだった。

家はお隣に売った。家の姿は変わっていないが、表札の名前は変わっていた。






のり兄い

2017年04月23日 08:27



先週、壬生川へ行った。

来年は70才。
そろそろ終活に入る。こちらも、向こうも。
お互いこれが今生の別れになるかもしれぬ。


叔父の家を訪ねた。
母の末弟で、叔父・甥と言っても10才しか違わない。
功雄という名前だったので「のり兄(に)い」と呼んでいた。
(本当は造りは力でなくて刀だが、漢字表にない)

よく海で遊んでもらった。
カブトガニを捕ったと思ったら抜け殻だった。
模型作りを教えてくれたのはこの叔父だった。
一緒に、便所にスイカで作ったお化けを吊して、2人ともこっぴどく怒られた事もあった。
一月分の給料をはたいて、水月焼を買わせた』のも、この叔父だった。



15年前に64才で亡くなった。


自分が末っ子だから年下の私を可愛がってくれたと思っていたが、
叔母さんに「よく似ていたので仲が良かった」と言われた。

え、そうだったの?

遺影を見上げると、懐かしい顔が微笑んでいた。



水月焼の蟹

2016年12月01日 00:32



母及びカミさんの里の壬生川は、小学生のころは愛媛県周桑郡壬生川町であった。
その後、東予市壬生川となり、現在は西条市壬生川になっている。

西条市は水の豊富な所として売っているが、それは辺り一帯同じことで、打ち抜きと呼ばれる湧き水が各家庭にあった。
水源は地表近くの真水の層で、潮の満ち引きで水位が変わる。
道路脇にはその水を川に導く水路が流れ、家の三和土をこんな沢蟹が走るのが見られた。

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これは松山の好川恒方という人が創始した「水月焼」という焼きものだ。



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小学1年か2年の時に、叔父(母の末弟)に連れられて松山に行った時に買って貰った。
買って貰ったと言うより、どれにするか散々迷って結局全部買わせたというのが真相だ。
叔父の一月分の給料が総て飛んだという。勿論後で母が返していた。

小学生の分際で銚子、猪口、ぐい飲みを揃えるとは・・・・。



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好川恒方は明治、大正、昭和に活躍し、昭和53年に95才で亡くなった。
これらを買ったのは昭和35、6年なのでまだ恒方が活動していた。
その後夫人である恒悦が継いだが、今は閉釜してしまって作られていない。
2種類の刻印がある。右が恒悦のものなので、左の銚子は恒方の作品だろう。


叔父は歳が近い(10才年上)こともあってよく遊んで貰ったが、18年前に60才で亡くなった。



[NEX5R+LA-EA4+SAL50M28]撮って出し





本家が消滅した

2016年03月23日 09:37



先日49日の法要があった。
カミさんの書道の先生であったが、同時に私の本籍地に住む本家の最後の人だった。

祖父は次男坊だった。
祖父の兄の家系は、孫即ち私の代には女ばかり3人姉妹になった。
その末っ子が未婚で家を継いでいた。

餅つきに行っていた親類(祖父の妹の嫁ぎ先)程ではないが、1m程の石垣の上に母屋が建つ古い家だった。
代々の墓は、我が家のような共同墓地ではなく近所の寺の境内にある。

仏壇と墓を引き継いでくれる事が故人の希望だったが、
家と、駐車場にしていた土地を引き継ぐ事になった甥は、墓や仏壇はいらないという。
墓も仏壇も無くすという。
墓じまい、仏壇じまいと言うらしい。
永年ご先祖の供養してきたのに、自分は位牌も墓もなく、永代供養されて終わりとは。


諸行無常。



祖父と扇風機

2015年07月29日 10:46

祖父は頑固な明治人間だった。
頑固と言うより頑迷と言った方が正確だ。

エアコンが普及する前だった。
祖父に扇風機を買ったら、使う時に戸襖を全部閉めさせた。
「風が逃げる」という。
エアコンと同じように、風を「生成」する機械ととったようだ。
当然室温は上がり、祖母は文句を言う。
父が説得したが頑として受け付けない。
そのうち扇風機は押し入れに突っ込まれて使われなくなった。


無知程強いものはない。



親父の影

2015年06月19日 10:04

夢のなかに、父が出てきた。
いつまでも、元気でいてくれよ!

と、思ったら眼が覚めてきた。

親父はどこに居る・・・・・

5年も前に死んでしまった。


いつまでも親がいるものだと思って生きてきたから、
死んでからも、それが意識下に残っている。

「親を空気みたいに思ってやがる」(居て当然)と言ってた事もあったなあ。


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親父が育てていた南天の花が咲いていた。
一度枯らしてしまったが、根が生きていて復活した。


撮影[α99+Sigma MACRO 50mm F2.8 EX DG]Capture oneで補正



変わり餅

2015年03月20日 10:06

先週、もちつき について書いたら、餅を送って下さった方が居た。

ネコと通称される、ナマコ状の細長い楕円形に伸ばした餅をスライスした切り餅だが、色んな物が入っている。

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右から、たかきび、蓬(よもぎ)、薩摩芋、塩を混ぜてついている。

他のはほのかな味だが、薩摩芋入りは直ぐにそれと判る程甘い。

何も入っていない餅を真空パックにしたのはスーパーでもよく見かけるが、こんなのは見た事がない。
昔の味を楽しむ需要があるようだ。

色んな物を混ぜるのは、今は違った味を楽しみたいからだが、
米を充分に食べられなかった時代に、雑穀類を混ぜて増量したというのがルーツかもしれない。


食感は真空パックの餅と同じで凄く柔らかい。
手でついた餅と違って、機械で完全に捏ねてしまうからだろう。


そう言えば、あいつの49日の餅もまだ残っていたなあ。





私の歴史 その9 もちつき

2015年03月09日 10:06

昔は沢山餅を食った。

餅にたっぷり醤油を付けて焼き、ご飯に載せてお茶漬けにして食った。
冬の朝飯の定番だった。
飯をおかずに飯を食っていた事になる。



餅は大晦日か、その前日についた。
近所の親戚で、大きなへっつい、広い土間、石臼の揃っている旧家があり、一緒に2軒分ついた。

まだ夜の明けない暗いうちから、重い石臼を大人2人がかりで引き出し、幾段にも積み上げた蒸籠で餅米を蒸す。
石臼に蒸し上がった米をあけると、杵の頭を掴んで丁寧に飯粒を潰していく。「こつき」という。
こうしておかないと、飯粒が飛び出してしまう。
粘り気が出てくると、その層で全体を包むようにしておいて、つき始める。
まだ振り上げないで上から杵を落とすようにつく。杵を振り上げてつくのは最後の10回ぐらいだ。
それも、力を入れずに杵の重みを利用して落とす。
初めてつかせて貰ったのは、小学校5年生ぐらいだった。

つき上がった餅は、お婆さんが片手で握って親指と人差し指の間から絞り出して千切る。
私達、子供はそれを平たく丸めて小餅にしていく。
出来上がった小餅は「こうじゅうた」と呼ばれる、専用の大きな、底の浅い木の箱に並べる。
餅の入ったこうじゅうたを自転車で家まで運ぶのも私の役目だった。
20箱ぐらい有ったと思う。

家の前の道路で餅をついている事もよくあった。
「ちんつき」と呼ばれる、道具持参で餅をつきあげる商売だ。
臼や蒸籠がなくても、お鏡と小餅だけはどこの家でも賃つきでついて、正月を迎えていた。


餅以外にも、かき餅用にもついた。
胡麻や海苔を入れてつく。こちらは具が飛び散らかさないよう、殆ど「こつき」だけで仕上げててしまう。
この高等技術を持っていたのは父だけだった。
正月が終わってから包丁で薄く切り、2枚ずつ藁でくくって繋ぎ、室内にぶら下げて乾燥させた。

母の実家から送られてくる砂糖入りのかき餅も楽しみだった。
火であぶるとふくれてくる。それを箸で延ばしながら焼いていく。倍くらいの大きさになった。
しかしいつしか、送られてこなくなった。
聞いてみると、カンナがけをする人が亡くなったのだという。
包丁ではなくて、専用の大きなカンナで薄く削っていたのだ。



切り餅用に細長く伸ばしたものは、由来は知らないが、ネコと呼ばれていた。
餅つきはお昼近くまでかかった。
最後のひと臼は、あんころ餅にして皆で昼食代わりに食った。
前にも言ったように、この頃の私は甘い物が苦手だったので、1個だけお付き合いして
直ぐに「こうじゅうた」を運んで出ていった。

祖父だけは、この年末の恒例行事に参加しなかった。
飯の粒が飛んできて顔にかかるのが嫌だったらしい。
元は小作人だったのに、いつも鳥打ち帽を被っているオシャレ好きな人だった。



もちつきをしていた家は、江戸時代末期の茅葺き屋根の建物で、
トタン板で屋根を覆っただけで、建具はあるが天井との間は仕切りがなく、全室ワンルーム。
大阪市内で地下鉄駅から徒歩2分の所で、19世紀から時間が止まっている。


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私の歴史 その8 潮干狩り 

2015年03月06日 09:53

夏休みは常に母の実家で過ごした。

近くに高須と呼ばれる海水浴場があった。
天然記念物になったカブトガニが捕れて、小学校の夏休みの宿題に提出した事もあった。


夕方になって「オジさん」と潮干狩りに行った。
潮が引いていて、遠浅の浜を沖の方まで歩いて行った。
夢中になって貝を掘っていたが、気がつくと砂に海水が被るようになってきた。

オジさんは、入れ物と取って来ると言って戻って行った。
普段遊んでいた浜からは随分と離れている。
振り返って沖を見るとヒタヒタと波が押し寄せてくる。
辺りを見回したが誰も居ない。

急に怖くなって泣き出した。
その声に驚いたオジさんが急いで戻ってきた。
直ぐ帰ってくるからとなだめられたが、泣き止まない。

とうとう、オジさんはシャツを脱いだ。
シャツを風呂敷代わりにして、捕った貝を包んだ。


そのオジさんには後々まで、「この坊主に裸にされてしもうた」と言われた。
そのオジさんが誰だったか。
実家に居た2人の叔父ではない。
伯母が養女に入っていた電気店の誰かだったのだろうか。
判らない。
その電気店もとっくに人手に渡ってしまった。