とさでん交通いの線&高知城

2016年06月29日 10:01



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遍路を終えて、泊まった「かんぼの宿伊野」は仁淀川河畔に聳える大きな宿泊施設だった。
かんぽの宿は亡父がよく利用していた。
場所は中心街から少し離れるが、自前の建物なら設備が良く値段もリーゾナブルだ。


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全室「リバーサイド」で、仁淀川が真下を流れている。
それに、土讃線の鉄橋も!!


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対岸の伊野駅で列車交換をやっている。
右が上りの高知行きで、左は下りの須崎・窪川方面行きの各停だ。
上りが先に発車して、まもなく下りがやってくる。
遮る物がなにもないので、警笛の音がここまで聞こえてくる。


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仁淀川鉄橋通過。
まるでジオラマの中を模型の列車が走っているようだ。


丸1日空いたが生憎昼前から雨の予報が出ている。
それでも折角ここまで来ているのだからと、とさでん交通いの線と高知城を見に行く事にした。
カミさんは生まれも育ちも隣の愛媛県なのに、今回のお遍路まで高知県に足を踏み入れた事がないという。
そこまで出不精だったのかと改めて驚いた。



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終点の伊野停留所は平成20年に建て替えられた。

以前は土佐電気鉄道という私鉄で土電(とでん)と呼ばれていたが、現在は高知県や県内自治体が出資する三セク線になっている。
鉄道はJR各線のように床の高い高速列車が走り、軌道は各都市の市電のように低床の路面電車が走るが、
この路線は、鉄道事業法による鉄道と軌道法による軌道が一本の路線の中に混在している。
使用されている車両は路面電車で、これが専用軌道の単線、ローカル線相当の線路を走っているミスマッチ感が面白い。

本当は全区間乗って完乗としたいが、伊野-はりまや橋-御免の東西線と高知駅前-桟橋五丁目の桟橋線を乗りつぶし、しかも元の駅まで戻ってくるとなると3~4時間かかってしまう。
今回は路線の景色を見る事にした。


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駅前から左に線路が延びているが、繋がってはいない。


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ここは道路ではなく線路だった。


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少し高い所で行き止まりになっている。
かっては4本の留置線をもつ車庫だったが、今は駐車場になっている。


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電車がやってくる。
停留所の前だけ複線になっているが、1時間に3本程度の運転間隔では待避線の必要はないだろう。


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主力車両の600形が左側のホームに近い側に入線した。


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列車止めは店舗の前に申し訳程度のものがある。
この先道幅は急にほ細くなっている。車が入ってこないので乗降客も安心して道路を歩ける。

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5分程度停車した後で、再び高知方面に発車して行った。
しかし、次の停留所までは100メートル程しかない。


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信号を右へ渡るとJR土讃線伊野駅がある為だ。
駅名は伊野駅前停留所

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伊野駅前駅を出ると専用軌道に入る。
停留所のホームは基本的に道路と反対側に設けられている。

この道路は国道33号線で松山と高知を結ぶ主要国道である。その道幅の1/3を私鉄が占有するとは。
かっては高松と高知を結ぶ32号線と共に「V字ロード」と呼ばれていた。
今では高松~松山間と川之江~高知間の高速道路が「T字ロード」を形成している。



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商業施設が並んでいて、乗降の多い停留所では少し脇へ寄る・・・・・
だが車社会でどれ位の人が電車を利用のするだろう。
3セク線になる際の調査では、バス鉄道の利用シェアは各々1%ずつしか無いという先に光明が見えない状態だった。



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単線区間が長いので、3ヵ所に列車交換のできる信号所がある。
バラスを敷いた線路と車道が柵もなく一体になっている景色は、ちょっとシュールである。


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これも600形だが土佐電鉄塗装の車両だ。


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高知市との境は峠になっていた。
さすがに枕木やスラブがしっかりしている。


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これまで道路の右側をつかず離れず併走していた土讃線が、咥内(こうない)停留所付近でクロスして左側に移る。
伊野線が全通したのは明治40年、土讃線の高知-日下間が開業したのは大正13年。
国有鉄道と雖も後輩の土讃線が、先輩の伊野線の上をオーバークロスするのが鉄道の習だ。


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それにしてもサイドにガードも何もないレールだけの鉄橋だ。
ここで脱線したら列車が降ってくる。


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これは2000年にデビューした2000形。
最も新しい車両だ。


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朝倉駅前の停留所辺りから、より細い道路に線路が敷かれている。
元はこちらが「メインストリート」だったのだろうが、100年経てば街道も変わる。
専用軌道だが道路が狭くて車線を確保できないから、車も通行できる。
優先権は鉄道にある。電車が前から来たり後ろに追いつかれても(追いついても)抜けられそうな横道が無い。
この区間が結構続く。


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途中、列車交換のできる箇所があるがここは停留所ではない。鴨部停留所はもう少し先だ。
この先左折すれば太い道路に出られそうだ。


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鏡川を渡る。
両側に2車線の自動車橋を従えて、真ん中を路面電車の単線鉄橋が通っている。
ここから再び国道33号線を走る。


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渡り終えた頃になって電車がやってきた。
渋滞している車の間をスイスイ走り抜けていく。
先ほどの専用軌道の上を走っている時に、あれが来ていたらヤバかった。フウ。



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岸を渡り終えた所が鏡川停留所だ。
ここからは2車線で道路の中央の併用軌道を走る普通の路面電車の風景に変わる。


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路盤の石が痛んできて、あちこちで凸凹になっている。
3セクになる前は赤字続きで路盤補修まで手が回らなかったのだろう。
市の中心部に行くとさすがにアスファルト舗装に代わりつつあった。

高校生の夏休みに室戸岬を回って高知経由で母の実家のある愛媛県の壬生川に向かった事がある。
それ以来50年ぶりだが、県庁回りの一部の地域を除いて高い建物がなく、道路沿いの店舗の構え等も昔のままのように思える。
街中の移動手段がずっと路面電車だったからだろうか。
あの頃は大阪も東京も路面電車が全盛期だったが、まもなく交通渋滞の元凶とされて急速に廃止されていった。



県庁前でとさでんとお別れして高知城の駐車場に車を入れた。
まだ天守閣が開く9時になっていないが、既に数台入っていた。




追手門から天守閣を臨む。


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板垣退助なんて最近の人は知らないのではないか。


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山内一豊はこの奥さんの「千代」の内助と、掛川城を関ヶ原に向かう家康に明け渡したゴマスリで土佐一国を手に入れた。
長宗我部の旧臣の反乱を力で押さえ込んだ後は、彼らを「下士」として掛川からの家臣団の下に位置づけた。
その下士達の抑圧されたエネルギーが幕末になって倒幕に向けて爆発した。
家康を初めとして、敵対した側の旧家臣をうまく取り込んで勢力を拡大した大名は多い。統治者としての器が小さかったと言わざるを得ない。


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江戸期に建造された天守閣が残っている城は、姫路城を始め全国に12城ある。
高知城もその一つだが、それに加えてここは本丸の建物が総て残っている。


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書院造りの広間を通って天守閣に入る。


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東面、入ってきた追手門から三の丸方面の眺め。右奥がはりまや橋の辺りだ。


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二の丸は何も残っていない。


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県庁前の交差点で、今は同じ会社になった高知県交通のバスと土佐電鉄の路面電車が交差している。
この交差点が、国道33号線と32号線の境界である。

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松山、高松、室戸岬、足摺岬(中村)へと四達するこの交差点は、東京ならば日本橋に相当する高知県の「へそ」だろう。



四国方面は雨という予報で大阪に帰ってきたら、カンカン照りの日差しが戻っていた。



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満願成就 35番清瀧寺~車遍路最難関札所 四国88箇所車遍路(83)

2016年06月27日 09:59



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青龍寺を出る時にこのタクシー会社に予約を入れておいた。
ここで、バス遍路の参加者で歩いてお参りするのが困難な人がオプションでタクシーに乗り換えて参拝する。
バスもここに駐車して、オプションを使わない人はここから徒歩で参拝する。

遍路ルートの途中の高知市近辺が最後になったのは、この寺の参拝の手段を迷っていたからだ。
寺への参拝道は距離は短いが、道幅が非常に狭い。
対向する場所が用意されているが、そこでも幅はギリギリで数が少ない。
相手が地元の車だと良いが、他府県の車同士だったら下り坂のカーブをバックするという最悪の事態も有りうる。

朝一や納経所が閉まる直前というタイミングを狙う事も考えた。
お遍路最初の寺の焼山寺は、7時45分に着いたがビギナーズラックで往復とも車に出会わなかった。
しかし、他人も同じような事を考えていて結局鉢合わせしてしまうようだし、ビギナーズラックが何度もあるとは思えない。

歩きも考えたが、このタクシー会社以外に適当な駐車場が無い。


ここだけはタクシーを使う事にした。
料金は往復と待ち料金も入れて2000円。
これだけで安心・安全を買えるなら安いものだ。

万一、17時までに納経所に行けなかった場合に備えて1泊予約してある。
万全の体勢で満願成就に臨む。



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この別れ道を左へ取ると車遍路最難関札所へのルートとなる。

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車はプリウスだったが、道幅いっぱいいっぱいだ。
参道はもう1本あるので竹林寺のように一方通行にしてくれれば良いのにと思うが、もう1本の道は切り返しをしないとカーブが回れないらしい。

15時を過ぎていたが、3台の車とすれ違った。
他府県ナンバーの車が先に道幅の広い所でストップしたが、運転手はそこではすれ違い出来ないからこっちへ来いと指示していた。

傾斜が思ったより急で、もし歩いていたら既に6ヵ寺回って疲れた身体では厳しかっただろう。

運転手が、転落事故はしょっちゅうあるが、不思議に死んだという話しは聞かないと言っていた。

お大師様のお蔭という事か。


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15時27分、ラストの清瀧寺に到着。
我々だけで誰もいない。
結局、帰り際に地元の人の軽自動車が1台上がって来ただけで、貸し切り状態だった。

巨大な薬師如来の台座の地下に「戒壇めぐり」が設えられている。
右が本堂で左が大師堂で、2つのお堂は繋がっている。


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辺りの景色が鄙びているので侮ったが、屋根の造りを見ればこれは相当な建物だ。

88箇所霊場会のHPには
『江戸時代には土佐藩主の帰依が厚く、厄除け祈願のために寺領数百石の寄進を受けるなど、七堂伽藍を備え、末寺10数ヶ寺をもつ土佐路の大寺であった。』とある。
さもありなん。


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本尊の薬師如来


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大師堂と本堂の結合部にも何か祀られている。


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本堂の右奥から音がするので行ってみると滝があった。
これが清瀧寺の名前の由来となる滝だろう。


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鐘楼を探して納経所の方へ行く。
本坊には綺麗な庭園が造られている。


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門の反対側に鐘楼があった。



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ここにも穴が設けられている。
木製の蓋があるが音響効果には影響しない。


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標高が130mあるので本坊前の展望台からは土佐市が一望にできる。


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ズームすると仁淀川が広がってきた。


これで帰ってはいけない。まだ大事な場所が残っている。


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車で一気に本堂まで上がってきたが、石段を降りたら仁王門がある。


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天井の睨み龍は地元の画家が奉納されたものだ。
なかなか迫力がある。


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さあ、80段あるこの石段を上がったらいよいよ満願成就だ。



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36番青龍寺~170段の石段 四国88箇所車遍路(82)

2016年06月24日 09:56



34番種間寺から順路は、35番清瀧寺、36番青龍寺なのだが、清瀧寺まで今日中に行けなかった場合は明日朝1番にお参りする予定にしている。
今夜の宿は清瀧寺に近い「かんぽの宿~伊野」を予約しているので先に青龍寺をお参りする。

こういう事情がなくても、地図で見ると、海岸から山の麓にある清瀧寺に行って再び海岸の青龍寺という順路は不可解だ。
実は青龍寺から次の37番岩本寺へは浦ノ内湾を船で横断するコースがあり、空海もここだけは船に乗ったとされている。
巡航船は今も運航されているが、車や歩きで船に乗らないのなら35番と36番を入れ換える方がリーゾナブルだと思う。


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日本一の清流仁淀川の河口にかかる仁淀川大橋。


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左は海。その上に真っ直ぐに架けられた橋を渡る。
欄干はあるが、長い長い沈下橋を渡っているようで爽快だ。


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航路がある浦ノ内湾の入り口に架けられた宇佐大橋。
宇佐は大分県の宇佐市が有名だが、この辺りも宇佐町である。
「USA」と書かれた看板がチラホラと散見される。


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黒潮横波ラインから車幅ギリギリのブロック塀の間をくぐり抜け、細いが平坦な田舎道の突き当たりにいきなり現れた。
もう少し山の中に入るものと思っていたので拍子抜けした。

14時15分、本日6寺目の青龍寺に到着。


朝青龍が毎日昇降して腰を鍛えたという、170段の石段が始まっている。
明徳義塾高校もこの近くにある。



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仁王門の横に小さな三重の塔があった。


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カミさんはゴールが見えるので気が楽だという。
実は10番切幡寺が330段でもっとキツかった。
あちらは下からはゴールが見えなかった。


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石段の横に、滝に打たれる行場があった。
渇水期でもないのに水量は少なく、スローシャッターにしないと水滴が分離して写ってしまう。

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あと少し


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立派な本堂だ。
四国88ヵ所霊場会のHPには「明治のころまで土佐7大寺といわれ・・・・」とあるのだが、他の6寺が判らない。



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青「龍」寺らしい破風の飾り。


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本堂の両脇には石と青銅の不動明王


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本尊の波切不動明王


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大師堂


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大師像


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境内の端に白山神社があった。
神仏習合の名残だ。
これまで特に写真はアップしてこなかったが、88ヵ所で神様を祀る社が無い寺は無かった。
神仏分離の嵐が吹き荒れたのは、神主・坊主という人に対してであって、特に人を置かない小さな社は見逃されている。
結局の所、あれは信仰の問題ではなくて世俗の勢力争いだったのではないだろうか。


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鐘楼が見つからないと探したら、石段を降りた右に鐘楼門があった。


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この紐を引くと鐘が突ける。
格子で紐とその先の撞木の動きが制限され、大きな音で鳴らないようになっている。
ともあれ、鐘を突けるのは有り難い。


まだ15時前だ。
今日中に清瀧寺まで回れるぞ。


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34番種間寺~底の抜けた柄杓 四国88箇所車遍路(81)

2016年06月22日 09:53



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13時28分、5寺目の種間寺到着。ここも山門が無い。


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境内で懐かしい「アイスクリン」を売っている。アイスクリームではない。
子供の頃に食べたアイスクリンは脂肪分が殆ど無く、甘味もあっさりした氷菓子のようなものだった。
その分安くて、小さいのなら1日5円の小遣いでも買えたが、それだけで1日辛抱できるものではなかった。
縁日なら別枠なので、普段より高いけれど買って貰えた記憶がある。


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このデザインの電話ボックスが奈良や京都で流行した事があるが、今では電話ボックスそのものを見なくなった。
NTT標準ではないので維持費が掛かるという事も、絶滅への拍車をかける要因になっている。


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電話ボックスの先の鳥居の横に、石垣が積まれた鐘楼がある。


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ここも、鐘の下に穴がある。
しかも内部に仕上げが施されている。
壺を埋めてあるようだ。


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大師堂


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お顔は垂れ幕で見られない。


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本堂は鉄筋コンクリートのようだ。


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立派な祭壇だが、厨子の扉は閉じられている。


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その代わり?おさわり大黒がおびんずり様の代わりに置かれている。


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この寺にはもう1つ鐘楼が?


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子安観音ではなくて子育観音とある。


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この寺では安産祈願の時に柄杓をお供えする。
すると寺では底を抜いて安産祈願をしてくれる。
無事出産すると、その柄杓をお礼参りに奉納するという事になっている。


団体に追い付かれるのではと、思ったがこの後も団体さんに遭遇する事はなかった。
雪蹊寺を最後に帰ったらしい。
我々から見ると随分早いが、高速でトイレ休憩をとりながら徳島に17~18時に帰着しようと思ったら、14時過ぎには出ないといけない。

種間寺では、我々以外の遍路はアイスクリンの写真に映っているオッチャンと、タクシー遍路の夫婦だけだった。
運転手だけでなく、夫婦がお経を上げている間、団体と同じように鐘を鳴らすガイドが付いている。
運転手はその間に納経所でご朱印をもらっている。
これなら鉄道で現地入りすれば駅まで向かえにきてくれて、あとは「車難所」なぞ気にせずバックシートにふんぞり反っているだけで良い。
しかし、1日中一緒に居る運転手やガイドに気を遣って、却って疲れてしまうような気もするなあ。



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33番雪蹊寺~長宗我部元親の寺 四国88箇所車遍路(80)

2016年06月20日 09:49



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禅師峰寺から海岸線に出て黒潮ラインと呼ばれる県道14号線を走る。
丁度時分時になったので、道路沿いにある「健康志向・麦庵」に入った。


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先月香川を回った時、「手打ちうどん渡部」で食べたうどんの「いりこ出汁」が上品で、これまで経験したことの無い美味しさだった。
ここも「いりこ出汁」というので期待していたのだが、12時前というのにかけうどんの出汁がもう無いという。
それで、釜玉うどんにした。
看板にはセルフとあるが、席まで運んでくれた。トッピングだけがセルフのようだ。
ここのは醤油を直接うどんにかけて食べる。
やや硬めの茹で加減だったが、高知でも真性の讃岐うどんが食べられた。



予定通り桂浜をパスして雪蹊寺に向かう。
海岸は大規模な堤防工事中だった。
ダンプカーが多いと思ったら、ここへ資材を運んでいた。
津波対策だろうが、高知の海岸は室戸岬~足摺岬間で260kmもある。
どれだけの税金をコンクリートの壁に注ぎ込むつもりなのか。
ほかに使途はないのか。


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長宗我部元親の像は没後400年に当たる平成11年に建てられた。
ここは若宮八幡宮の参道だが、海岸から延々と続いている。
そういえば鎌倉の鶴岡八幡宮の参道である若宮大路も由比ヶ浜の海岸まで続いている。
若宮八幡宮は長宗我部氏の後、土佐に入った山内氏からも庇護されていた。



先にその若宮八幡宮に行く積もりだったが、分かれ道を見逃してして、先に雪渓寺に着いてしまった。

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12時42分、4寺目の雪蹊寺到着。
この寺は長宗我部元親が再興した。その際に元親の法名「雪渓」を寺名とし宗派も臨済宗に変わっている。
88箇所中臨済宗はここと11番の藤井寺だけだ。ともに再興した藩主の宗旨によって変わっている。


山門が無いのは意外だ。

高知県では竹林寺に次いで重文クラスの宝物を多く抱え、宝物館もある。
長宗我部家の菩提寺だが山内家も寺領100石を与えて庇護した。
廃仏毀釈で明治初期に2度目の廃寺となったの際に山門が破壊されたのか。
なお長宗我部元親は、その後新たに創建された秦神社の祭神となっている。
なのでここに元親の墓はない。
秦神社は雪蹊寺の右裏にあるようだがそこまでは付き合いきれない。

右の石碑には「人生即遍路」(人生は遍路なり)という種田山頭火の銘が入っている。
「歩いても歩いても道ばかり」と詠んだ、放浪の俳人種田山頭火は行李の裏にこの語を書きつけていた。お遍路にも2度出ている。
どういう事情が知らないが、全く同じ「人生即遍路」の石碑が14番常楽寺にもあった。


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ここの鐘は突けないようだ。


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大師堂


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普通、大師像だけで周りは質素な造りなのだが、ここのは常時お祀りしているようだ。


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本堂
本堂も大師堂も「土足厳禁」の札だけてなく柵が幅一杯設置されている。
どうせ本物は宝物館の中だからと、本堂の中は見なかった。


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境内に柑橘類の直売場がある。
この店は何時でもここでやっているそうだ。寺と特別な関係にあるのだろうか。


帰り際に観光バスが2台入ってきて駐車場が一杯になった。
竹林寺で一緒になった団体だ。
バスに「AWA」の文字があるので徳島から来ているのだろう。

朱印を押してもらいに行ったカミさんがなかなか帰ってこない。
気になって境内へ戻ったらちょうど社務所から出てくる所だった。
団体が一斉に入ってきたという。
普通は添乗員が一括して納経帳を管理し、参加者がお経をあげている間に書き終えてもらうものなのだが
ここのは各人でやるらしい。
寺によってはお経をあげてからと怒る所もあるが、読経はパスしても、納経帳に判がないと行った事にならないと考えるのが人情だ。
それでバスが停まると大挙して社務所に向かう事になる。
竹林寺の長蛇の列もこういう理由があったのか。

京阪神から来るツアーなら添乗員の料金をプラスしても、元々が高いので込み込みにできるが、四国発だと割高に感じる料金になってしまうのだろう。

しかしこの方式は、一般のお遍路には迷惑この上ない。
読経で脇に追いやられるばかりでなく、納経所でも並んで待たねばならない。
添乗員だとタイミングをずらすだけで、別の事に待ち時間を使える。



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すぐ近くの若宮八幡宮に向かう。
2つめの鳥居の向こうに本殿が見える。
七つ片喰(カタバミ)の長宗我部家の家紋を染めた旗が立っている。


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秀吉に従って九州討伐に向かう際この鳥居に軍旗が引っかかって落ちた。
元親は吉兆であると強弁して出陣したが、戸次川の合戦で嫡男信親が戦死した。
怒った元親はこの鳥居を壊させたが、のちに地震で浮き出してきたので再建されたという話が残っている。

元親は後継者の信親を失ってすかっり気力を無くし、後にお家騒動が起きている。
関ヶ原の戦いでは、後継者となった盛親が西軍に与して改易されてしまう。

「四国の蓋にならん」としたが、土佐一国も保たなかった。
神罰が当たったという事か。長宗我部氏滅亡の端緒ともなった因縁の鳥居である。



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屋根が二重になった社殿は「出蜻蛉」とよばれている。
こちらの方に向かって蜻蛉が飛び立つという格好だ。
土佐神社が「入蜻蛉」で戦勝報告、こちらは「出蜻蛉」で戦勝祈願と対をなしている。
「入」だけで「出」の方に行かないのは片手落ちだと、神罰をくらっては大変なので両方ともお参りした。




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梅雨時の庭の花

2016年06月19日 09:42



お遍路ではどんより曇った空に泣かされたので、梅雨の晴間に庭の花木を撮ってみた。


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紅花常磐満作(ベニバナトキワマンサク)の新葉。
緑の葉の先に赤い葉が付いている奇異な光景なのだが、この種には普通の事らしい。

[α7R2+Batis 1.8/85]

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山法師が満開になっていた。


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シマトネリコも花には見えない花を咲かせている。


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南天の花は長い間ずっと咲いている。

以上[α7R2+SAL135STF]


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135STFで焦点距離ギリギリに入った静物を撮ると、三脚無しのMFではなかなか思ったようにピントが合わない。
F8まで絞って誤魔化した。
ところが90mmマクロのAFで撮ると開放でも一発だった。

[α7R2+SEL90M28G]

それほどに浅い焦点深度がSTFの売りなのだが。
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例えば左や右下のピントが合っている花と、右上のボケている花では、レンズからの距離は数センチほどしか違わない。

その優秀さが災いして最近では殆ど出番がない・・・・・・。



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長い間蕾の状態だった甘野老(アマドコロ)の花が開いていた。

[α7R2+SEL90M28G]






32番禅師峰寺~鐘の音に耳を傾ける 四国88箇所車遍路(79)

2016年06月17日 09:25



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禅師峰寺は竹林寺から更に南に行った、八葉山という標高82mの丘の上にある。
ここへ来るまでに「津波避難タワー」があったから、この辺りは地震があれば津波の被害を受ける地域だ。
駐車場のある丘の斜面には、おびただしい数の墓が並んでいる。
ここまでは津波の被害が及ばないという事なのだろう。


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本尊と同じく十一面観世音菩薩に迎えられて参道を上っていく。
郵便受型の賽銭箱がチャッカリと付いている。


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参道に、水子供養の観音菩薩が並んでいる。


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昔懐かしい「ポン菓子」
「何故ここで」は詮索しないでおこう。
ポンの由来を体験した人も少なくなりつつある。
砂糖を混ぜて貰うのが贅沢だった。



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11時24分、3寺目の禅師峰寺山門に到着。
本物の仁王像は重文なのでここにはない。


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代役の像も、相当年期が入っている。


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代わりに?山門の右に不動明王の象がある。



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山門から続く石段の脇は奇妙な形の岩の壁になっている。
屏風岩と呼ばれている。
余程脆い岩が風に削られたのだろうか。
そういえば「あいつ」は屏風ケ浦という所に住んでいた事があったっけ。


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境内はコンパクトになっていて、大師堂、本堂、鐘楼が一目で見渡せる。



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ここの鐘楼の下は


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穴が空いている。

梵鐘はその内法の直径の2倍に相当する波長の定在波が発生する。
矩形のスピーカーボックスと違って円筒形なので、1つの平面は同一の周波数の定在波が発生する。
またその整数倍の周波数の高調波も同様に定在波となる。
ただし鐘は単純な円筒形ではなくてテーパーが付いているから、単一のサイン波ではなくて微妙な色付けがある。
これが鐘の音色を決定すると思われる。

鐘の下に、鐘と同じ大きさの穴を作ればその定在波がさらに強調されると共に、
鐘の頂部と穴の底部でも別の周波数の定在波が発生する。
この2つの定在波間でうなりが生じている可能性もある。

音を聞いてみると、定在波が増強される所為か余韻が強く、長く持続する。
目をつぶって聴くと音が下からも聞こえてくる。

この仕掛けは一つ前の竹林寺やこの先の種間寺や清瀧寺でも作られている。


いつごろ、誰が工夫したものかだろうか?
本尊の十一面観音は、古くより「船魂(ふなだま)観音」として、漁師や船乗りたちの信仰を集めている。
土佐藩山内氏が参勤交代のおりに航海安全を祈願したという。
海上の船にもよく届くようにと、こんな工夫がされたのだろうか。



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この寺は本堂も大師堂も、お堂の前に置いてある線香立てと灯明を大きな上屋で覆っている。
参拝者を雨風から保護するという意味があるのだろうか。
そのため正面からの写真が撮りづらい。


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本堂の十一面観音。
仁王像を収納するくらいの建屋があるのだから、本物の本尊は収納されていて、これは前仏なのだろう。


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大師堂


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大師像


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境内の展望台から土佐湾を望む


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ズームを望遠端の240mmにすると・・・・、ノートリミングで桂浜が撮れた。
10倍ズームの威力を見た

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少しトリミング
これで桂浜もパスできるぞ(笑  いやマジで



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31番竹林寺~西の苔寺 四国88箇所車遍路(78)

2016年06月15日 09:28



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竹林寺は善楽寺の南方にある、五台山という標高146mの山の上にある。
途中、高知市内を俯瞰できる五色台公園展望台があるが、出来れば今日中に7寺廻り明日は雨に降られても良い予備日にしたいと思うのでパスした。
代わりに、少し下の駐車場から。


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五台山の道路は一方通行になっている。
この牧野植物園を通り過ぎてしまうと、下まで降りてもう一周してこなくてはならない。


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10時32分竹林寺到着
この渡り廊下を潜って境内に入る。


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重文に指定されている書院の一部が納経所に使われている。
書院の裏には夢窓疎石作と言われている庭園があるがパス。



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境内の地面は、通路以外全て緑の絨毯で覆われている。
雨上がりの境内は曇りで日差しが強くない事も有って、西の西芳寺という言葉が浮かんでくるほど、空間まで緑に染まっている。


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鐘楼の下に穴がある。
鐘の下に穴があって有名なのは次の禅師峰寺の筈だが。


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仁王門。
金網に穴が開けてある。
仁王像の写真を撮りやすくする為か?
覗いてみたが、大した仁王像ではなかった。


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この石段を上がると、本堂や大師堂がある。


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お婆さんは完全に腰が曲がっていて、尻を後ろに突き出すような格好で石段を上っている。
見ていてもハラハラするが、これも高齢の男性が手を引いて一段づつ上っていく。
お婆さんの方がどうしても竹林寺に行きたいと言ったのだろうか。

この二人、私は夫婦だと思ったが、カミさんは絶対に親子だと言う。



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石段の上は左に大師堂、右が本堂、更に石段を上がった所に五重塔がある。


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この五重塔は昭和55年に建立された。
88箇所にある4つの五重塔の中で最も新しい。


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本堂は団体に「占拠」されているので、先に大師堂でお勤めをする。


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大師像から伸びた紐は堂外で五鈷杵と繋がっていて、その法具に触れば「ご縁」ができる事になっている。
どこの大師堂でもやっているが、それより堂内を明るくして大師像を直接肉眼で見られる方が、ずっと身近に感じられると思うのだが。


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重文の本堂。屋根は杮葺(こけらぶき)になっている。
この本堂は文殊堂と呼ばれていて、日本三文殊に数えられている。
四国88箇所中、文殊菩薩を本尊としているのは竹林寺だけである。
反対に最も多いのは薬師如来で、22ヵ寺におよぶ。
今日もこの後、33番・雪蹊寺、第34番・種間寺、第35番・清瀧寺と3寺続いている。
 

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本尊は秘仏なのでこれは前仏。
宝剣は持っているが象には乗っていない。


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本堂の横のお守り売り場
文殊様なので「合格」「学業」は守備範囲だが、家内安全、健康、安産と何でもござれだ。
あちこち足を運ぶのは面倒だから、一箇所で済ませてしまいたいというニーズもあるのだろう。







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30番善楽寺~札所争い 四国88箇所車遍路(77)

2016年06月13日 10:00



6月8日、9回目の車遍路に出た。
「あいつ」の魂の安寧を願って始めた遍路も今回が最終回となる。

梅雨に入った所為で天気予報があたらない。
既に前日出発の予定を雨で1日延期している。
今日明日ともイマイチの天気のようだが、来月4日の3回忌までに回り終えたいので敢えて出発した。
本降りにさえ遇わなければ、曇り空は日差しで気温が上がる事もなく、遍路にはむしろ都合が良い。写真には厳しいが。

今回は、30番善楽寺から、竹林寺、禅師峰寺、雪蹊寺、種間寺、青龍寺、清瀧寺の7寺を1泊2日で巡る予定だ。



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5時30分と早朝の出発だったので、阪神高速から山陽自動車道までガラ空きだった。
瀬戸大橋から讃岐富士の飯野山が遠望できる。


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四国上陸。
梅雨の雨雲の悪戯で、本物の富士山のように帽子を被った讃岐富士を横目に、川之江JCTから高知自動車道に向かう。


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今回は車内からカミさんにα7R2で沢山の写真を撮って貰った。
帰ってきたらバッテリが2%しか残っていなかった。




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土佐インターで高速を降りて、ダンプカーがやたら多い高知市内を走る。
9時30分、善楽寺到着。出発してから丁度4時間。高知は遠い。
山門はなく境内に無料駐車場がある。



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本堂は鉄筋コンクリート製のようだ。


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「ここの」本尊の阿弥陀如来。
本来の本尊仏は別の寺にある。


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本堂の左に大師堂。
ここは厄除け大師として有名だが、大師像は見られなかった。


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本堂、大師堂の向かいに子安地蔵堂があって、安産祈願の絵馬の代わりにフェルトの地蔵様が奉納されている。


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首から上の病に御利益があるとされる梅見地蔵


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石の手水を天邪鬼が支えているというので、もっと大きな像があるのかと思っていたら、
4隅に小さな天邪鬼が居た。



「平成6年まで続いた札所争い」
善楽寺は入り口の石柱に「一宮百々山」とあるように、土佐一宮、土佐神社の別当寺だった。
(即ち、明治初年の神仏分離で、本尊と大師像が移される前は土佐神社が30番札所だった。)
ところが間もなく、善楽寺が廃寺となり、本尊の阿弥陀如来像は29番の国分寺に、仁王像は24番最御崎寺に預けられた。
明治8年に市内の安楽寺が再建されて30番札所を名乗った。本尊も返還された。
(安楽寺は土佐神社とどんな繋がりがあったのだろうか)

昭和4年に善楽寺が再建されて、札所の返還を求めたが安楽寺が応ぜず札所争いが始まった。
(札所になって半世紀以上経っているのだから無理もない)
昭和17年に一応の解決はするが、それは両方とも30番札所という「玉虫色」の決定だった。
1ヵ所2寺の観音寺、神恵院の逆で、1札所2ヵ寺とお遍路さん泣かせの札所だが、どちらに参っても30番はクリヤーという事になっていた。

札所争いが始まって半世紀以上経った平成6年に、善楽寺が30番札所、安楽寺は善楽寺の奥の院という事で、ようやく解決した。
安楽寺が引いたように見えるが、さにあらず。

1.本尊の阿弥陀如来(重文)は安楽寺に安置。
2.善楽寺の住職は安楽寺が兼務する。

安楽寺が善楽寺を「吸収合併」したのだ。

(最御崎寺に預けられた仁王像が返還されたという話は、聞かない。最御崎寺には新旧2セットの仁王像があった。
古いほうが善楽寺ものなのだろうか。善楽寺に仁王門が造られるまで最御崎寺で預かっていると解釈しておきたい。)



騒動の大元である土佐神社が、道路を挟んだ向かいにある。
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「土佐一宮」の扁額が掲げられた鳥居の奥に立派な本殿が見える。
私でも荘厳な雰囲気を感じる。
明治まではこちらが札所だった。その「空気」が今も残っているかのようだ。
「霊場」というならこちらの方が遥かに相応しい。


神仏分離でダメージを負った神社は多い。
68番神恵院の「元」札所だった琴弾八幡宮、83番一宮寺の元札所の田村神社、55番南光坊の隣にある大山祇神社別宮
等は今でもそれなりに参拝者が多いが、本来ならウチはもっと栄えていたという思いがあるだろう。
逆に神社が栄えて寺が寂れた例もある。
札所ではないが、金比羅さんで親しまれている金刀比羅宮の金比羅大権現は松尾寺にあった。
神仏分離では、住職が還俗して神主となり、寺を破壊、宝物をとりこんで今に至っている。
自分の保身の為には信仰なぞどうなっても良いという典型的な生臭坊主だ。


なお、これらの寺社(土佐神社を除く)は新四国曼荼羅霊場という「神仏合体」の霊場として逆打ちの88箇所巡りが設定されている。
「新」とあるという事は四国曼荼羅霊場もあって、こちらは寺ばかり88集まっている。

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長宗我部元親が戦勝の報告に詣でたという、「入蜻蛉」造りの本殿、拝殿、弊殿が一緒になった建物。
本殿に向かってとんぼが飛び込む形にみたてている。
国指定の重文になっている。


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全体として十字を形成している。
成る程蜻蛉の尻尾だけ有って長い。


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山之内家が寄進した重文の鼓楼


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この長い参道の端に、これも重文の楼門があるはずだが見えない。
「ついでに」寄っただけだからとパスしたが、後で画像を見ると南禅寺山門を少し小振りにしたような立派な造りの門だった。




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真田太平記から真田丸まで

2016年06月10日 09:56



池波正太郎作「真田太平記」は1982年に9年に及ぶ「週刊朝日」への連載を完了した。

久しぶりの大河小説だった。
2段組900ページのハードカバーで全3巻は寝転んで読むには少々重すぎた。

歴史小説は結末が判っているが、真田太平記は一気に読んでしまう面白さがあった。
これを原作とするNHKの大河ドラマが、85-86年に創られていて、現在CSで全45話が何度目かの再放送されている。
一方同じテーマで、今年の大河ドラマ「真田丸」が好評放送中である。

以前の大河ドラマ「真田太平記」は原作にほぼ忠実なドラマ化だった。
「真田丸」はオリジナル脚本だが、ストーリーの展開はほぼ同じで、下敷きにしているのは間違いない。
まあ同じ史実に沿った物語だから変えようがないのかもしれない



85-86年のドラマでは昌幸に丹波哲郎、信之に渡瀬恒彦、幸村は草刈正雄、秀吉に長門裕之、昌幸の妻に小山明子。
これ以外に架空の人物が登場する。
草の者として、お江を遥くらら、向井佐助(猿飛佐助を彷彿とさせる)を10数年後に毛利元就を主演する中村橋之助、頭領の壺谷又五郎を夏木勲が演っていた。
他に信之、幸村の腹違いの弟(実は偽りだったが)樋口角兵衛(ドラマでは榎本孝明)、滝川一益の孫の滝川三九郎等々登場人物が極めて多い。
当時の大河ドラマらしく豪華なキャストだった。

原作の複雑なストーリーを紹介するのは厄介だが、一言でいうと、2人の兄弟がいて片方は若くして戦死してしまった物語である。
これに3人目の主人公として架空の人物、お江が絡んでくる。これは信之、幸村を食ってしまう程出番が多い。
この草の者の女キャラを使って、原作者は歴史の影のストーリーを自在に紡いで物語を膨らませていく。
お江が、単身戦場で家康暗殺を謀るように、真田太平記の忍者は自分の考えで行動する。
それが他の草の者とは違う、よりヒューマンなのだと池波正太郎は何度も繰り返す。





「真田丸」は面白い。
1回完結の連作短編集を見ているようだ。コミカルにさえ感じる。
実在の人物でも、史料が少なければ自由度なキャラクターを与えて、ストーリーに組み込んでいける。
真田家では昌幸の時代までの史料が少ない。徳川幕府が意図的に事跡を消し去ったのかもしれない。
叔父の真田信尹が昌幸に劣らぬ策士だったりと、真田丸ではそれを巧みに利用している。
却って自由にストーリーを組み立て易くなっている。

真田丸では、寺島進演ずる出浦昌相が忍者の頭領として登場する位で、個々の草の者はこれまで登場していないのが大きな違いだ。
真田太平記から人間ドラマの要素をそれだけ欠く事になる。
コミカルで毎回盛り上がりがあるが緊張感は少なく、ロールプレイングゲームのムービーを見ているような印象を与える要因なのかもしれない。

真田丸での防御戦は大坂冬の陣での幸村を一挙に有名するが、史実では戦闘の2週間後には和議に入ってしまう。
クライマックスは夏の陣での家康を追い詰めた戦闘になる。
そうすると主眼は真田丸ではなくて、幸村になってしまう。
これをどう捌くか、三谷幸喜の腕の見せどころかもしれない。





小説のラスト近く、登場人物のその後を書いて締めくくる段がある。
母や妹への思慕を押し隠して黙々と任務をこなしてきた向井佐助が、大坂夏の陣で重傷を負い、母が縫った子袖袖を形見に残して死んでいく様子が描かれる。
同じような歳で死んでいった「あいつ」と重なってしまい、読み進むのが辛くなってしまった。

それだけ、この小説が読む者を没入させる力を持っているという事なのだろう。