山陽・四国の旅 第1日その1 大阪-高松

2010年03月10日 17:41

2010/03/03

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風邪がなかなか直らず、2度延期してようやく出発となった。何時出発できるか判らなかったので、切符は当日の朝に買った。天王寺のみどりの窓口でメモを渡して周遊切符というと、専用の申し込み書を書かされた。今や端末から即座に印刷して発行できるというのに、書式だけは「周遊券」時代から生き残っている。

ゆっくりスタートしようと思ったが、旅立ちとなると朝早く目が覚めてしまう。環状線の中で時刻表を開いて、どの新幹線に乗ろうかとページを繰る。予定より1時間早い「ひかり491号」に乗ると今日中に「こんぴらさん」見て高知まで行ける。大阪駅で電光板を見上げると、京都行き各停の発車は7時25分。乗り換え時間は2、3分しか無い。
新大阪駅でドアが開くのももどかしく、ホームの階段を一気に駆け上がる。コンコースを走り抜け、新幹線ホームへの階段を走り上がる。が、後10段程の所で急に足が上がらなくなった。脳は命令しているのだが、足が動かない。無酸素運動を続けて、太股の筋肉が酸欠に陥ったらしい。助役が発車ベルに手をかけているのが目に入る。しかし、ここで無理に運動を続けるさせると、上体だけが前へ進んで柏崎駅の時のように転んでしまう。一段一段歩いて昇った。目が合ったせいか、無情にも目の前でドアが閉まるという事にはならず、デッキから座席室内に入った所でゆっくりと発車した。

脈拍は岡山駅に着いても平静時に戻らなかった。病み上がりの身体には過酷な運動だったわうだ。
岡山駅でも2分の乗り換えになる。車内の乗り換え案内では、次の列車しかアナウンスされなかった。しかし今度は下るだけだから同じ2分でも余裕がある。車掌に階段の位置を確認しておいてエスカレータで下りた。

茶屋町で宇野行きに乗り換える。岡山-茶屋町間は今もって宇野線だから、宇野線から宇野線に乗り換えるというおかしな事になっている。宇高連絡船には満1才の時から乗っていた。小学校の時は夏休みの始まった日から、8月末までずっと四国の母の実家で過ごしていた。その後も就職するまで毎年1回は必ず四国に渡っていた。

それ程足繁く通った所なのに、宇野線の景色の記憶が蘇ってこない。大阪から宇野まで乗り換え無しで行ける準急の鷲羽号に良く乗った。岡山を過ぎると茶屋町以外には停まらないし、茶屋町を過ぎると連絡線に乗る為にデッキに出ていた。ゆっくりと景色を眺めている事が無かったのだろう。


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連絡船に乗る客は宇野駅の2階から乗船した。高松に劣らず大きな駅だったが今は見る影もない。位置も海岸から大分後退している。


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フェリー乗り場は駅から斜め右方向にある。真っ直ぐ行ったところにあった連絡船の岸壁は使われていないようだ。一時、連絡船の直ぐ横からホーバークラフトか運航していたが、ずっと前に姿を消した。

このフェリーも今月26日で運行を停止する。宇高連絡船以来続いてきた航路が消える。その為にどうしても3月中にこの旅を実行したかった。



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椅子席が並んだフェーリ内は、かっての連絡船の船内とよく似ている。
船内には風呂まで用意されている。これで390円だから相当に安い。ちなみに昭和60年に宮脇さんが、下津井から丸亀にフェリーで渡った時の料金は630円であった。(目移りのの四国路~「途中下車の味」)


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デッキに上がってみたが風が強いので誰もいない。連絡船の最盛期には、こんなオープンスペースにも乗客が溢れかえっていた。万一の時にボートでは到底収容仕切れない。その為に筏が何十枚も積み重ねられていた。


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右手に本四架橋が見えてきた。橋が出来るまでは、工事の進捗を船から見るのが楽しみだった。けれど橋が完成して高速道路で繋がってしまうと、逆に瀬戸内海を渡る回数が減っていった。海を渡るという非日常性が失われて、旅から単なる移動になってしまったからかも知れない。


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左に屋島右に高松の街が見えてくると、短い船旅も終わりに近づく。この景色だけは昔と変わらない。


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左手に、鬼ヶ城で有名な女木島が見える。新宮の鬼ヶ城は、柔らかい砂岩が波に浸食されて出来た天然の洞窟だが、ここのは容積が4000立方米もの人工の洞窟が絶壁の下に掘られているという(宇高連絡線と高徳本線~「終着駅は始発駅」)。昭和6年に「発見」されるまで島民も知らなかったというが、ちと怪しいと思う。そんな大きな「工事」をして、島民に気付かれないはずが無い。関わり合いになるのを恐れて、島民が示し合わせて口をつぐんでいたのではないか。その内に代替わりが進んで、集団として記憶を失っていったのではないだろうか。


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高松のフェリー乗り場も、駅から斜め方向にズレた位置にある。真っ直ぐに着くのは連絡船だけだった。そのお陰で高松城を目の前に見ることが出来る。高松で連絡船を降りた客は、座席確保の為に長いホームを走る。駅の屋根にも邪魔されて、目と鼻の先にあるこの城を見た事が無かった。

高松城を造ったのは生駒氏だった。生駒親正は豊臣の3中老の1人として讃岐一国を与えられていたが、子の一正を東軍つけて生き残った。しかし、瀬戸内海の要衝高松を外様に治めさせる訳にはいかない。お家騒動で取り潰し、17万石から1万石の名目だけ残して東北へ追いやった。その先が秋田県の3セク線、由利高原鉄道の終点矢島である。一方、生駒氏に代わって入った松平頼重は水戸光圀の兄である。長子ではあったが、庶子として届けられていた為に水戸藩を継ぐことが出来なかった。遺憾に思った光圀が頼重の子を養子に迎えて水戸藩を継がせ、自分の子は頼重の養子として高松藩を継がせたという有名な話がある。更に光圀はこの事を楯にとって、5代将軍綱吉に兄綱重の子家宣を6代将軍に付かせるよう迫った。伯夷叔斉を思い出させる話ではあるが、生駒家の犠牲で空いた高松藩があればこその話ではなかっただろうか。


閑話休題


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この月見櫓とその周辺の建物が重要文化財になっている。重文という事は、素材を含めてほぼオリジナルの姿で残っているという事だが、間近で見るとコンクリートで復元された建物のように見える。このくらい離れないと「らしく」見えない。


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城壁の角を曲がると、城公園の入り口に続いて琴電の終着駅「高松築港」駅が見える。「築港」とは懐かしい響きだ。かっては多くの築港があった。天保山も昔は単に築港と呼ばれていた。築港は旅の始まりだった。



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ホームが高松城の石垣にくっついている。


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ホームは、天守閣へ通じる唯一の通路だった鞘橋を見るのに絶好のポジションにある。城内は石垣の修復工事中らしい。


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琴電は堀に沿って走る。ひょっとしてと思っていると、もう一つの重要文化財である艮櫓も綺麗に見えた。これで高松城の見たいと思っていたところは総て見た。見学に予定していた時間は別の事に回そうと思う。


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