79番天皇寺~崇徳天皇の寺 四国88箇所車遍路(64)

2016年01月18日 10:15

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12月14日
10時10分天皇寺到着
寺に鳥居があるのは神仏習合の証で何度も見てきたが、ここのは「正門」で、
しかも両脇に小型の鳥居が付いた鮮やかな朱塗の三輪鳥居になっている。
左の下乗石は源頼朝が寄進したとされている( 四国八十八ヶ所霊場会)。


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鳥居をくぐって真っ直ぐに進むと白峰宮がある。
天皇寺の本堂や大師堂は左側に有り、此処の主役は今でも崇徳天皇を祀ったこの神社だと知れる。
白峰というのは崇徳天皇の廟のある五色台白峯から来ているのだろう。


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崇徳天皇の廟のあるのは白峯寺だが、讃岐での配流先はこの地で、ここで9年暮らした後に1164年崩御した。
ここ崇徳天皇社は死の翌年1165年に二条天皇の命で建てられた事になっている。
しかし、崇徳天皇の怨霊が暴れ出すのは死後数年経ってからで、それまでは省みられる事は無かった。
二条天皇は1165年に退位している。
死の直後に建てた事にしたかったのだろうが、怨霊を鎮める為の神社だから造営はその後の天皇の時代の事だ。
もちろん実際の指令は院政を施いていた、崇徳天皇の同母弟の後白河法皇から出たのだろう。


江戸時代には崇徳天皇社とその別当寺である摩尼珠院が札所とされていた。
明治の神仏分離で摩尼珠院は廃寺とされ、崇徳天皇社は白峰宮となった。
その後筆頭末寺であった高照院が札所を受け継ぎ、摩尼珠院跡地のこの地へ引っ越してきた。

本寺が廃寺にさせられたら末寺が名跡を継いでいくという四国88箇所札所ではよくあるパターンだ。
神社が残っているならそこを札所のままにした方が歴史的な意味での継続性があると思うのだが、
神と仏は違うものと言う概念が広まってしまっては、坊主であった弘法大師の足跡のある場所を神社が継いでいるというのは受け入れ難いのだろう。
明治の神仏分離の嵐は10年程で収まったが、日本人の宗教概念を変えてしまうという大きな影響を残した。



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神馬の像も腹に菊のご紋を抱いている。


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参道の左側に本堂と大師堂がある。明らかに白峰宮が主の配置だ。

本堂で般若経を上げている3人組のイントネーションがおかしいと思っていたら、中国人だった。
88箇所遍路は世界的な広がりを持つようになったのか。


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本堂の左に大師堂


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本堂の厨子は閉じられていたが、お大師様は拝顔出来た。


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天皇寺の裏手の道を少し行くと地蔵堂がある。
弥蘇場地蔵堂で、本尊は地蔵菩薩とある。「八十場の泉」の直ぐ傍に建てられている。
弥蘇場は八十場と同じ発音だ。
八十場の泉には弘法大師も訪れたとも、ここが天皇寺の前身だとも言われている。


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この泉には2つの伝説がある。

その1
景行天皇の時代に、南海で暴れていた悪魚を退治に向かった88人の兵士が悪魚の毒に苦しんだ。
この泉の水を汲んだ童子が兵士達に水を飲ませると、たちまち蘇った。そこで八十蘇場の清水と呼ばれるようになった。

その2
崇徳上皇の崩御後、遺体をどのように葬るかについて京からの指示が無かった。
使者が到着するまでの20数日間、この泉に遺体を浸していたところ全く腐敗しなかった。


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ここの泉は枯れる事がなく、右側の建物で今も清水屋さんが「ところてん」を売っている。
さすがに12月に客はなく、来年の春まで営業休止の貼り紙があった。





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