弘法大師の与り知らぬ四国88箇所遍路~お遍路を終えて考えた事(2)

2016年07月15日 10:18



四国88箇所の成立
これまで何度も書いてきたように四国88ヵ所は、江戸時代初期の乞食坊主(住職となる寺を持っていない僧はこう呼ばれた)
の真念が書いたガイドブック「四国邊路道指南」(しこくへんろみちしるべ)によって定着した。
真念のアイデアが優れているのは、単に88ヵ寺を指定しただけでは無く、札所としてナンバリングして巡拝するルートを創った事にある。

地元の人でも(あるいは地元だから)弘法大師が88箇所定めたという人も多い。

平安京3代目の嵯峨天皇の信任を頼りに、東寺の別当を任せられ真言宗を創始すべく活動していた空海は、
常に足を掬おうと待ち構えている敵対者の多い首都京都を、長きに渡って留守にする事は出来なかった。
ようやく最澄の比叡山に対向して、高野山に伽藍を造り始めたが道半ばで倒れ、その後は弟子も四散して真言宗そのものが消えてしまう危機に遭った。

そんな多忙を極めた空海が、四国に渡って88箇所を定め、本尊の仏像を刻んでいったとはとても考えられない。
空海と行基と聖徳太子がそれぞれ本尊を刻んだ等とうそぶく寺伝なぞ、証拠がある訳では無く言った者勝ちの法螺話である。
弘法大師が行ったとされる奇跡の数々は弟子達が真言宗の布教の為に創ったものだろう。
総ての業績を弘法大師に集約する事は弟子達全員にメリットがあった。



時が巡り、善通寺を始め弘法大師と所縁のある(とされた)寺を巡る事が行われるようになった。
まだ札所という概念はなく通常の寺社巡りの一端だった。
その中から、
真念は何を基準に88の寺を選んだのだろうか。

何度もお遍路に行って寺の環境や、そこに至る道中の景色も知り尽くしている。
当時の寺社参りは観光であった事を考えると、「眺め」も大きな指標だっただろう。
山岳宗教だが山ばかりでは一般人は行かない。
山あり、海あり、里ありのルートは現在の基準に照らしても秀逸である。

もう一つ選定基準が考えられる。
伊勢、金比羅、出雲等、大きな寺社の周辺には必ず女郎屋があった。
「精進落とし」という言い逃れで、実はこちらが真の目的だったりする。
しかし88箇所の周辺にはそういう「施設」はない。
寺個々では女郎屋が建つ程参拝者が無くとも寺が「集団」となって参拝者を増やせる。
先の見える住職は、地元の檀家以外から収入を得られると真念に選定に入れてもらうよう依頼しただろう。
裕福でも無いのに遍路に行きたい真念が、「支援」してくれる寺をリストアップする事でキブアンドテイクが完結する。

88箇所には真言宗以外の寺も少なくない。
元は真言宗であっても、廃寺になっているのを再建→建て替え、宗旨を変更したら物理的にも宗教的にも弘法大師とは縁もゆかりも無い寺になる。
それでも真念がリストに入れているのは、こういう経緯があったのではないだろうか。
そして乞食坊主と真念を馬鹿にした大きな寺社はリストに入らなかった。




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